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冨澤の家について


詩を書くうえで、詩人が自己を明らかにすることはよくある。それは個々の詩よりも詩人の名前のほうが大きな意味を持つことがあるからである。その主旨で以下では、自分の家系・出自のことを書いて置こうと思う。その主旨以外に求めるものはなく、私の親族・遠戚のものたちのプライバシーを守れる範囲で、ここに明らかにすることに限定する。また話のソースは私が口伝・親族からの手紙などで、実証的に研究された歴史的事実ではないことを予め申し上げておく。というのも我が家の祖自体が戦国時代に遡るからである。

本来は家系に属する者の間の口伝であるが、「富澤」の祖は戦国時代の上野の武将で、勇猛を持って知られた人であったと聞いている。戦略的な理由で娘に武田氏の家老の家から婿を取り、我が家を武田氏の一族とした。叔父のところに調査に来たある大学の研究者からの話ということだが、この武士の子孫は4つの家に分かれて上野に威を奮ったが、現在のよくドラマ化される織豊期の始まるよりも前に武士団としては衰退・滅亡してしまったと聞いた。さらに徳川時代にはこの地の地方官であったのかもしれない(これは私の推測)が、この研究者によるとこの時代のうちから「富澤」をワ冠の「冨澤」にし、「とみさわ」を「とみざわ」にするようにされたとか云うことだった。古い家系を顕彰するのが、徳川・江戸時代の文化事業でもあった。

このかなり豊かであったらしく、一定の地位を保ち続けた武士の家が明治時代を迎えたときには桐生にあり、この家から出た曽祖父が太田に進出、渡良瀬川の砂利採取権を得て、現在の首都圏と言われる地域が急速に成長するなか一財を成したようである。その次男が私の祖父であった。そして私の父は、昭和元年生まれ。この年代の日本の歴史を知るひとなら、父と祖父の一家に非情な悲劇が待っているのはよくわかるであろうが、私も詳しい事実は知らない。推測は幾重にも立つ。ともかく父の幼少期には繁栄していた曽祖父以来の一族は没落して、父は苦学をしつつ、昭和19年中央大学の法学部に入学した。

しかし昭和20年、二十歳の父は陸軍の偵察機の搭乗員にされてしまった。この事実を知ったのは、私が小学生のころスタイルの優れた軍用機のプラモデルを買ってきて、それを見るなり父が激怒して「守治、もう今夜は寝ろ!」と訳もわからずに怒鳴られて知った。敵地の写真を昼間撮るため単機で敵地の上空に潜入、双発のエンジンと流線型の極めて空気抵抗の少ない機体を持ち、高速だけを頼りに逃げ帰ってくる、危険このうえない仕事だったらしい。父が実戦に加わったかは知らないが、相当つらいことがあったようで、負傷もしたような話もしていた。そのとき以外には二度と詳しい話は聞いていない。

なんとか父は生き残り、戦後大阪進出を目論んでいた読売新聞社に入社、大阪読売新聞発刊のスタッフになり、そこで事務員をしていた母と結婚したわけであるが、発刊後には文化面の記者をしていた。しかし私がものごころがつく頃、どういうわけか読売新聞を辞め、業界紙の雇われ社長を数社渡り歩くことになる。だが上品な関西にあって上州流の荒々しい気性のせいか父の仕事はどれも続かず、次第に家は困窮して行ったが、読売新聞のときの上司が京都の新聞販売店を世話をしてくれて、それで十数年ほどして父は亡くなった。

こうしてもう詩を書いていた21歳の私は母と一緒に新聞販売店を経営しつつ、大学・大学院と勉強を続けていき、さらに私は過労で倒れ、回復後は重病の母を世話ができ、自身も頼りない自分の身体を保養するため転勤もなく時間の自由がきく保険代理店を始める。母の死後、寂しさを鎮めるために新古今和歌集を読んだのが、私の現代詩・和歌の再出発になった。拙詩集「夜桜は散り落ちて」に書いたとおりである。

保険屋が現代詩を書くと驚かれたことがあったが、物事は逆である。本来かような出自を持つ、現代詩に関連して哲学に興味があった法学士が、苦学して曲がりなりにも哲学を勉強している間に体を壊して、家族を守るのに必要な仕事をしつつ、やっと詩を書く心境になり、それができるようになっただけなのだ。ではなぜ本来、和歌や哲学、現代詩に興味を持ったのだろうかそのルーツは母方にあるようだ。これについては稿を改めることにする。




2016-06-28 当サイト・ブログ。冨澤守治・パーソナル・ウェブサイト