詩のコーナー
トップページ
掲示板
ブログ
灰皿町住所録
詩のコーナー
和歌のコーナー
評論のコーナー
各種ご案内
リンク
詩のコーナー・目次
次ページ:幾度なく話された夏の言葉に…愛を込めて…
長編詩、古い舗道の叙事詩-交響曲の夜-
第一章 古い舗道の歴史と家族の人々
第二章 交響曲の当日―ホテルから病院へ―
第三章 黒い瞳のピアニスト
第四章 交響曲の夜
第一楽章 ざわめき
第二楽章 スケルツォ
第三楽章 愛は根拠のゆえにこそ
第四楽章 交響曲
第一章 古い舗道の歴史と家族の人々
古い舗道、それは世界中のどこにでもある舗装道路、
新しい道が出来て行き止まりになり、修復もされず、いまは廃屋に
なった私の祖父の家と一緒に、大きな建物の造る暗がりのなか何も
語らずに、汚れたまま、都会の片隅に忘れられている
しかしそんな舗道にも、かつては強い陽が照り、私たちの祖父や
祖母たちの家族写真のなかに写り込み、たくさんの私が知らない
古い人々がセピアの色に染まりながら、若々しくも、幼く笑って
いる。そしてその背景の舗道の姿は鮮明に真新しく、敷石と欄干
だけは、いまも何も変わらない
その舗道を祭りの行列が通り、人波で賑わったこともある。その道
に沿って、綺麗な水のゆったりと流れる水路があり、上品な屋形船
が浮かんでは揺れながら、舗道の脇を流れるように下って行った
またあるときは、歴史学者だった祖父が、自宅の小さな講堂に学生
たちを集め、若い人たちが詰め掛けて来た、騒がしくも、幸福な
時代もあった
長い長い時間のなかに起こったことは多く、いまは戦死者の墓碑銘
に刻まれている、つまり殺された兵士たちが駆け抜けて行った、あの
戦争の日々は忘れ難い。頭上に敵国の爆撃機が飛んだこともある
そしてその後ろを優雅に低空を舞い、戦闘機が追いかけて行った
まだ少女だった私の母は真面目そうで、冷静に前方を見つめる操縦
士の横顔と姿に、一瞬憧れを抱いた。そして見て、聞いたそうだ
そして…、何度も話していた
そのあとに起こった閃光と振動をともなう大音響を
そうして祖父は戦争の終わる前に亡くなり、母は戦後の混乱のなか
戦闘機に乗るべく学徒動員されていた父と知り合い、さらに何年か
して、二人の子供をもうけた
子供のころ、祖父の家、母の実家で育った私は、背の高い浩瀚で、
革や表装の施された書籍の並んだ書庫のなかで、弟とビー玉遊びを
して遊んだ。祖父の発掘した瓦、発行していた研究誌の図面に使っ
た鉛の版木、陵墓や遺跡を測量するための、ドイツ製のコンパスや
カラス口などは、彼の知らない孫たちの格好の遊び道具になった
あるとき他の子供たちの家には無い、これらの重苦しいものが
何故自分たちの家には有るのか、疑問に思い始めた
ちょうど、そのころ
その舗道と水路の向こうに在った、病院の焼け跡で遊んでいた私は
ある日曲がりくねったガラス管の塊を見つけて来た
あとでそれが人間の脳髄の模型であると分かったとき
私は震えた…
それは底のない真実だった
その病院跡もいまは公会堂になり、毎日「美しい旋律」が洪水に
備えて水位を低くされ、異臭を放つ「排水路」に流れている
家族の思い出と遠い時代を秘めたまま、あの舗道は廃屋とともに
仕事を終えて、ひっそりと記念碑となり、眠っているのだろうか
いつの日にか、それは一つの歴史となり、蘇り、
人に知られることにはならないだろうか
遠い幼い日に母やその姉、伯母たちと兄弟、祖父の書生の人たち
そこに住んでいたたくさんの人々から聞いた
そこで起こった多くの出来事を、そのすべてを
私は立ち去って来た、あの舗道と祖父の家とともに
いつまでも、決して忘れはしないだろう
ページトップ
第二章 交響曲の当日―ホテルから病院へ―
その日の夜、コンサートの講演が控えていた「真面目な」指揮者は
病院のロビーで汗をかきながら、ある若い女性の診察の済むのを
待っていた
その日の朝、彼女はホテルで彼に何事かを迫った。結果的に女性は
肋骨を折り、指揮者は完全に混乱して、(一部は顔を見られないため)
頭を伏せていた
やがて診察室に呼び込まれると、産婦人科の女医、そして制服姿の
婦人警官と刑事が一人ずつ彼を待っていた
「あの娘が十七歳だと、知ってましたか。」そう問われて
(実は事態が十分理解できなかったのだが)彼は息を詰まらせた
「あの娘は妊娠しています」女医が言った
タクトを降り始める前の瞬間や間合いに、彼の好む無音の世界のな
かで、…次々と警察の刑事・行政的な手続きが手際良く進められる
高まる緊張のなか!ついに彼は妻に電話をかけた…
二時間後、指揮者に泣きつかれた彼の妻は平然とやって来て、病院
の事故係も驚くほどの診療費の知識と口達者で入院の手配を済ませ
さらにベッドの側でかいがしく若い娘の世話をしていた
押し黙るこの娘に何としても聞き出さないといけない
まず自分が病気に感染しているのを恐れて、彼女が主人以外に男性
関係がないか、両親は裕福か、自分たちに都合の良い社会的地位が
あるか
楽団のバンドマスターにはこう伝えよう
指揮者は今朝交通事故に遭い、ピアノの指導をしている女性が怪我
をして入院した。大丈夫、指揮者の妻がその女性に付き添っている
妻は自分の本当の姿を自覚していた。物心ついてからずっと、どこ
に行っても彼女は男性たちに好奇の目で見つめられて来た。隠して
はいたが、彼女の顔つきと表情、丸くくびれた腰と突き出た胸、
そしてなぜ夫がこの娘に溺れたのかも、指揮者の妻は知っていた
さらにこの瞬間にも、ナースセンターの若い看護婦がこの真実に
気がついて、自分の後ろ姿を見つめているのも(知っていた)
指揮者の妻は-自分の記憶から-どうすれば良いか分かっていた
自分が十七歳のとき、そうして欲しかったように、そうだあのとき
も要は解決すれば良かった。愛が無くて、傷ついていることも気づ
かないほども傷ついているのに、あの年上の男と違って私には未来
があると考えた。だけどあの男、
私に烙印を押して行った男のことは、
いまもあの若いときの「体」や気持ちと一緒に忘れはしない
*
きっと誰にもこの哀しみや「艶(アデ)やかな罪」のようなものは
ある。そして誰も分かっているはずだ
今日、この日は本当に終わり
新しい日がいつかは始まる
それは嫌でも始まる
間奏 挽歌
誰にでもこの古い舗道のようなものはある
そして誰も分かってはいるはずだ
その道に吹き寄せるほこり
情熱の想いよ、火のほこりよ
アスファルトをさまよった魂の最後のうなり
いまはこの舗道に蓄積して
その底面にある舗道の金属疲労とともに
その疲労のうえに遅れて古くなるほこりよ
とどめを刺そうと来たる怪人たち、物悲しい
そう、夕暮れの暗闇という訪問者たち
いまや魂の一粒一粒が道端で苦しい脈を断つ
舗道を覆う夕暮れは思い出させる
それは枝を拡げた大樹のように青空を覆い
群がる飛行隊が涙してせざるを得ないように
雷鳴をともなう白昼夢のように、気を失わせ
そして閃光となり、恐怖の頭脳となり
子供時代の幸福を消し去る
時にむき出しの欲望であり
時に身を捨てた無私の奉仕である
「愛」は乱暴で、代償をともなう
それはこの世の掟が罪を決めても
実は消すことが不可能でないはずの心の障壁
しかし現実には誰も彼れもを傷つけて行く
自然の暴風雨の類いなるもの
誰にもこの古い舗道のようなものはある
そして誰も分かっているはずだ
今日、この日終わった歴史は終わり
古い舗道がいつも見て来たように
新しい日々がいずれは始まる
ページトップ
第三章 黒い瞳のピアニスト
母の実家の前の舗道沿いには水路が在った
家族が去った後、対岸の病院跡には公会堂が建っていた
ピアニストは楽屋の窓の外の廃屋を少しの間、見つめていた
しばらくして彼女の黒い瞳は視線をそらし、楽屋のアップライトの
ピアノで音符を確かめて行く
明るい春の日、メロディーは次第に軽やかになり、渦巻く想念と
恋い色の撹乱を整理しては、その後には舞台のメイクに使った化粧
品の香りを散らして行く
大地が伝える音楽に酔い、舗道は別のことを想い出した
雨の止む瞬間に、空が突如広がり、人生が始まることを
かくも哲学的な「止むこと」は彼の記憶に彼らしく残り
果樹が熟して秋の祭が始まるように、陽気に高まり
舗道は息子に嫁を迎える父のような気持ちになっていた
彼女は細身の二十七の女性、音楽に捧げた青春のせいか
会ってもろくに喋りもしないのに、思わせ振りをする
この半年、僕のなかで起こる何かが辛さとなり
男性の押さえ切れないものだけをいつも残した
彼女は拒絶もしないままに、心根は黙って分からない
気が付ついていない男は多いけど、男の父や夫になる部分
男の胸には大きな井戸が在って、底無しで
その真実の穴へと、中に胸からこぼれる海水が流れ込む
僕の満たされない思いがどんなに深くても
答えがないと、海流が少し流れれば、すぐに溢れ出して
いつも流れる先は同じ沈黙の心、やり切れないままに
彼女の黒い瞳で愛の光景に変わり、不思議な空腹になる
*
この春の日、彼女が見つめる廃屋と舗道、彼女は恋人から聞いた
その歴史とストーリーを、僕も知らなかったほど深く
理解していた、いつに無くメロディーは高まり
経験豊富な古い舗道を喜ばせる音楽の域に達した
間奏、古い教訓
永く近寄り難かった思い出と、黒い瞳に曳かれたまま
いまや僕はあの舗道に足を踏み入れた
その舗道は何年も前の吸い殻を抱き
子供が遊んだ舗道は大人には小さくなり
割れたコンクリートからは雑草が生え出していた
過ぎた想いが多年草の茂みによどむ
舗道は草の力に支えられ、いまも息づいていた
しかし小川は水害に備えて水位は低くされ
どぶ川のように水を溜めては泡を浮かべていた
頬に受ける夕陽よ
舗道はいま仮面を剥いだ、それは父の幻影
早く逝った父の墓碑銘と重なる
この廃墟の光景は教えてくれる
眠りのうちにも時は過ぎて行くのだから
僕たちの歴史よりも早く、時は古くなる
この時の流れに反逆して
燃える心の琴糸が燃え尽きようとしないなら
ひとの記憶は戻ることができる
忘れていた、父のこと、子供のころ僕は父と争い
怖い夜道を祖父の家に行ったことがある
父の男性が子供を奮い立たせて
夜道を歩かせたときと同じに、そして
父の煙草が燃えるように、火のついた紙の色で
この日は夕空がある種の緊張に満ちていた
子供に、母親の気持ちは分かっても
父親の考えが難し過ぎたこともあった
父が悪知恵を与えるかのように
古い舗道の叙事詩はそこに響いていたのだ
ページトップ
第四章 交響曲の夜
第一楽章 ざわめき
夕暮れる、暗い舗道と汚れた小川の向かい側に公会堂の楽屋が並び
その窓の灯かりだけが僕の家族たちの思い出を照らしていた
調弦や小さな練習の音が聞こえるそんな宵の時刻
しかし現実の外の社会を見なくてはいけない
この時刻、すべての道と通路、交通機関が溢れ返る
昼とは別様に世界は一変し、帰宅する者、帰りたがらぬ者
カフェテリアに、居並ぶ雑多な人々
ときにはくだらなく、あるいは慣行的にヒトは群れている
仕事場でするよりも重要な話し合いと、幼い愛もあれば、よこしま
に情熱的な愛の話もあろう。同じく後ろめたい悪だくみもあろう
もちろんなかにはまだ事務所でコンピューターにかじりついている
カフェからは遠いところに居る者たちもいる
この地球の球体の、地平の明暗の境にはここ何千年か、人工の光が
多くあり、この毎夜繰り返される重大な事態においては、視野はい
つもまだ暗さに順応していない、世界は明る過ぎるのだ
基本的に官能的な商売の人々もバスや電車で都会に向かっている
人生に理想主義を求め、夜間の専門学校に通う人たち
仕事から帰って来て、あわてて家族の食事を作り出す主婦たち
幸福な宵の口、あるいは世間は朝よりも活発に動き出す
だのに交響曲の夜、この公会堂にも集まる人々は、すべての雑事を
捨てて、自分が舞台に立つような幻想にとらわれている、或いは
人生の哀歓が絡み合い、様々なアクメが亡霊のように集まる。
そしてときに一番悲しいコンサートは、主催者が借りたホールの
場代とのバランスを取るために、開演の寸前まで人海戦術で切符を
売りさばいているのだ
どれもこれも芸術の清楚さを守るための真相であった
照らし出されたホールは、ざわめき、開場を待ちわびていた
およそ数百キロの範囲に住み、別の仕事で稼いでいる演奏者たちも
人生の夢のために高速道路を突き走り
駐車場には他府県ナンバーの個性的な自動車が犇めいている
しかし今宵、鮮やかに暮れる公会堂で!いつものコンサートの夜!
バンドマスターは指揮者と打ち合わせができずに、苦悩しながら
興業主と相談ばかりをしていた
なにしろ指揮者はこの日の朝「交通事故」に遭い、同乗の「秘書」
が怪我をして奥さんが「駆けつけた」そうだ
うるさいピアニストはどこかの男と楽屋にこもりきりで、へたに
踏み込むわけにもいかない
いつもと何かが違う
それと何か気になるあのどぶ川の向こう、バンドマスターは芸術家
の直感で見た。楽屋の灯かりを映して黒い水面が光り
暗闇に沈む廃屋の輪郭は古風な威厳を取り戻していた
「ここにもにぎやかな日々があったに違いない」
そしてあの舗道は何かをたくらんでいる
第二楽章 スケルツォ
公会堂に向かうタクシーの後席の乗客は何も話さない
運転手は気味が悪かった、「警察署の前で拾った客だ」
ちらっと見た後は、うずくまったままの男のほうは、何処かで見た
人物だったが思い出せない。
「えーい!どうせ交通事故で事情を聴かれたんだ!」
よくあることだ、落ち込んでいるから素人だ。
「俺は二十年間(だけ)、安全運転だ」
公会堂の前の人波をかき分けタクシーは楽屋口に着いた
顔を伏せたまま車を降りた指揮者は躓き、踊るようにうまく建物に
入った。一刻も早く楽屋で落ち着こうと、腰を妻の腕に巻かれて
部屋に入った。ドアが閉まり、病院であの娘の家族に追い出された
のと同様にして、数分後に代わりの指揮者が追い出され、妻が深々
と相手にお辞儀をしていた。さらにバンドマスターと主催者が駆け
込んだが、すぐに追い出された。指揮者の神経は衰弱していた
混乱した、不気味な-そして幸福な-交響曲の夜、その後の開演まで
の一時間は多忙な時間だった。指揮者の用意ができると、ひとの出入
りが激しくなり、そんななか友人の弁護士が彼を落ち着かせた
こうしてピアニストの彼女の楽屋にも彼が来たが、僕を追い出しにか
かった。誰でもよい、追い出したかったのだ。
彼は驚いた、これまで指揮者に柔順だった彼女は初めて彼に逆らっ
た。険悪な空気に妻が割って入り、指揮者を追い出してから、僕た
ちと話をした。しかし昔の出来事を心の中で繰り返し、久しぶりに
「女」になった彼女は年上の女性の姿で僕の前に本当の姿を現し、
ほんのりとした女のそぶりを一瞬でも見せた。たまにはあることで
ある。しかしピアニストの彼女はそれに気がついて始めは怒りを感
じた。そして嫌悪感にとらわれた。「この女」は何かを隠している。
彼女は何も言わないまま、感情を高まらせた。理不尽なのは、彼女
もわかっているだろう。ただそれは生まれて始めてとも言わないが
珍しくも彼女の感じる衝動だった
第三楽章 愛は根拠のゆえにこそ
この感情のゆえにこそ、舞台衣装とメイクのまま黒い瞳の彼女は喋
りだした。子供のときから父の居ない彼女の有能な母親がしたこと
いまも幼い!弟の世話をしていること、子供のころから遊ぶ間も
無かったほどの、きっちりとした練習のプログラムのこと
それらで頑なに彼女が自らを封じていた「一人だけの社会」に、僕
は足を踏み入れていたのだ。
彼女の経歴は言わば、空白で、これらの生活が彼女の心に病みつい
て、この縄張りに哀れなほど囚われていた
彼女も知らず、また彼女を支配していることもわからずに支配して
いる架空の人物も音楽に捧げた生き方も、一体に誰も、世界中の誰
も思想も、完璧なはずは無かった。自由だけが完璧だが、それもまた
未来が見えないから、罪がないことだけは完璧だった。
唯一、歴史だけが未来を「支えて」くれるのだが、同じことが繰り
返されるという何の保障もなく、そして何より言葉による以外その
歴史自体は体験されたものでもない。
しかしいつかはこんな囚われた生活から、自由に「生きる」生活へ
と出て行かなくてはいけない
「生きる」がゆえに、彼女は女にならないといけなかった
自らか生むために、もし音楽だけの世界が「若さ」だとすれば、死に
向かって「老い」なければならなかった。愛の根拠といえば、その
ようなものなのだ
「生」と「死」を越えて「生きる」がゆえに、信仰に似ているかも
知れない。しかしときにある種の信仰は禁欲的で性愛を馬鹿にする
精神で生死を越えるために、肉体と繁殖までも越えているのだ
なるほど教義においては容認している。しかし生命と肉体の存続の
尊さに、精神が勝るものではない。そんな信仰は因習的だろう
この点では哲学も同様だ。間違えてはいけないだろう。精神が得意
な論理は根拠を問うものだが、生命に課せられた種の存続の課題と
は「根拠」によるものではないのだ。あるいは生命は根拠へと問い
続けて、死ぬまで走り続ける哲学王のことも知らずに「生き抜いて」
いるのだ
「生きる」がゆえに、彼女の心はいま子供のように叫んでいた
精神とともに、老い行く肉体にこそ愛は宿る
愛の根拠といえば、そのようなものなのだ
普遍的な価値に繋がる信仰や哲学が、そして音楽の「生活」が
家族と思い出を作るのではない
第四楽章 交響曲
そして、いつもの指揮者の「無料奉仕」の方針に従って、前奏の曲が
流れ始めた、指揮者は踊っているが、実はバンドマスターが楽団員に
話して、自分に調子を合わさせていたのだった
古い舗道の過ぎた夢が草むらに揺らぐように、タクトが弱々しく
揺れる。強い意志を欠いた前奏曲を楽団は疲れ気味に奏で、それは
まるで、苦くかつ相当まずいコーヒーが、舌を刺すかのごとくであ
った(そしてこのコーヒーは強制的に配られていた。)
長い疲労の時が終わり、繰り返し演ずるクラッシックを、今日まで
支えて来た伝統の緊張感に従い、音楽の空は錠前を外す
ピアニストが入場した
前奏に疲れ、指揮者に物足りない観客は歓声を揚げて拍手した
指揮者はいつもそうして自分の尊厳を守ってきたように、静粛に
させようとしたが、結局は諦めて、お辞儀を始めた
開いた音楽の夜空のもと
舗道と廃屋のあたりの、見える限りのあちらこちらで
空気が膨らみ、頬笑みの露が降り始めた
*
そして次の瞬間…
無音の調べでタクトが停止し、夢は突然眩くなった。ピアノの弦が
激しく破裂音で奏鳴し、古い舗道は恐ろしい和音にどよめいた!
連なって行く音符は、さらに連ながる音符に結び付けられて行き
四季の流転と、歴史の喜怒哀楽を巻物に綴る
観客の精神に触れつつ、演奏は共鳴を続けた
舞台照明に幻惑され、ピアニストの彼女は見た!
この見えない観客席の向こうに、自分が子供のときから
憧れていた、自分の夫や子供たち、家族の姿があることを
幻惑する舞台照明の向こうは明るい暗闇で、さらに
暗闇の向こうには、騒がしく幸福にひとを集める建物と
通り過ぎて行く上品な屋形船があった
夢の歴史のことを
ついこのときまで彼女を取り巻いていた愛の問題、つまり彼女が
抱き始めた疑いと怒り、決断をいつかは要求する感情!
この世に常在する卑劣さと、策略と、不幸に対抗する戦いと同種の
もの、彼女はすべての用意と支度をして、音楽を観客に振る舞った
ことごとくメロディーが渦を巻いていく
調律が狂うかのような高音のうなりは一瞬の音圧を上げ
高い倍音をともなう津波のような低音があとを襲った
沢の石を磨き、さらに水は流れ、川面のプールになる
心の岸辺に茂る大樹の夏の光景が流れにとどまるように
朝焼けに昇る太陽の力のように、自律神経を歌わせ
愛のホルモンを意識の酒盃に満たした
いま抱いた恋心の幸福に彼女は気づいていた
語ろうとして叫ぼうとすることを、口にすることを禁じて
フラメンコがラスゲアードをかき鳴らすように
これみよがしに、彼女は音感の世界に歌い上げた
音楽ホールの広い空間にあまねく響き
歴史を越えて過去を探り、未来を構築する
しかし論理自体は決して崩れず、明晰さを維持し続ける
十代の青年のようにしなやかな動作と敏捷さで跳ね
完璧な体力で楽章は踊り続けた
感動した楽団と、指揮者の歓喜のうちに大合唱を奏で!
そして巨大な和音で、彼女は世界中をどよめかせた…
1975年頃に50行ほどの抽象的な詩を下書きに残す。それをイメージして2000年に長編詩の形に変更、2004.5脱稿、
灰皿町公園5番地 冨澤守治ホームページ
に掲載したもの。フィクションである。2014.8当サイトに転記。
冨澤守治・パーソナル・ウェブサイト
ページトップ