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尾上の家について:(特に尾上金城について)


まず先日の父方、武家としての冨澤氏、冨澤家について、詩を書くうえで、詩人が自己を明らかにしておきたいとして、書いたことを一部引用しておく。

…以下では、自分の家系・出自のことを書いて置こうと思う。その主旨以外に求めるものはなく、私の親族・遠戚のものたちのプライバシーを守れる範囲で、ここに明らかにすることに限定する。また話のソースは私が口伝で聞いたこと・親族からの手紙などで、実証的に研究された歴史的事実ではないことを予め申し上げておく。…

…ではなぜ本来、和歌や哲学、現代詩に興味を持ったのだろうかそのルーツは母方にあるようだ。…

本当に過去の自分の半生を振り返ると、
中学生の12歳で現代詩に目覚める。当時の進学試験のみを目的にしたような「学問」に対する猛烈な廻りのひとたちとの見解の相違、反発。哲学への興味、現代詩の投稿、法学部出ながら哲学修士を取ってしまう。父親の早世による仕事をしつつ苦しい勉強をしていた、にも関わらずふたつの学問をこなして身体を壊す。母の看病をしながら恢復し、亡くなったあとは自分の幸福を求めて仕事を続ければよかったのに、母の死の痛手を庇うのに古典和歌に傾倒して、現代詩を再開、投稿を続け、ついに詩集まで出してしまう。

これらに関係しているものは、子供の頃から聞いていた「学問は人間性を陶冶するものである。」という母親ゆずりの考え方、和歌に対する敬意。幼児期・少年期を過ごした母の実家にあった古い日本史の書物、膨大な祖父の蔵書。でもほかの同級生の子供たちのようにおじいさんはいなかった。一番古い祖父についての記憶は、幼稚園に入ったかどうかのとき、おばあさんの膝の上で寝ているときのことで、

「おじいさんはどうしたの?」と言うと、おばあさん、
「もう亡くなったの。長い間、長慶天皇の研究をしていて。長慶天皇というのは、南朝の天皇で長い間在位(したかどうか)がわからなかったひとで、、、。」

もうここまで読んで読者はびっくりしているだろう。あまりこんな話を祖母から聞く子供はいないはずだ。

まあー、すごいおじいさんで、このひとのことを書くと百万言を尽くしても足りないほどのひとである。祖父は尾上金城(おのえ きんじょう。これは筆名、号である。本名は、榮吉。えいきち。)というひとで、長く宮内省の諸陵寮に勤めていたそうだ。多分嘱託であったろうが、天皇史・墳墓の専門家であり、学者であった。慶応4年(明治元年)生まれ、明治・大正と祭政一致の時代、天皇稜参拝が国民のブームになる時期を過ごしている。この関連は私には不明だが、当然のように神主の資格を持っていた。文筆家としても大変活躍したひとで、現在も存続している歴史雑誌をはじめ所々に多数寄稿しているほか、明治期には児童教育の本も書き※、浪花節関係の本も書いている。母から聞いたことであるが、そのほかにも関心は広く、ドイツ哲学、バイクの修理、食通、と多くの分野に一家言持っていたひとらしい。確認できていないのでここでは書けないが、まだまだいっぱいの文筆歴がある。(私は見たことはないが、喜劇の台本まで書いたとか、、、)
※ネットを検索していると、中原中也館の企画展示のなかにも祖父の本があった。

大変母の家族にとっては不幸なことではあるが、家政を傾けて古墳を私費で発掘したことがある。墳墓の歴史を調べに大陸にまで足を伸ばし、馬賊の人たちと交流したこともあったということである。かなり活動的な文化人でもあったようだ。私が個人的に確認したところでは、宮内省の転勤であったのであろうか、大正末年ころから昭和19年に亡くなるまで、晩年の数年は別にして大阪・京都・奈良と居を数年ごとに変えている。京都御所に近い住所は母が幼少期の思い出を辿りつつ訪ねてみると、宮内省の元の宿舎であったようである。歳を取って大阪府吹田市に落ち着いてからは、皇陵をテーマに種々の雑誌を個人で主催、出版していた。また同市内にある関西大学の学生たちが作るサークルの講師もしていた。(関西大学はのちに私の母校にもなる。いろいろと調べてもみた。)

はじめて祖父について聞いた長慶天皇について簡単に申し上げれば、明治になって正統と認められた南朝であるが、その南朝の後醍醐天皇、後村上天皇のあとの天皇で北朝に対しては強硬な態度を貫き、弟の宮、後亀山天皇に譲位することで両統の合一が計られたとされている。御製の和歌と源氏物語の注釈本で有名な「仙源抄」が確実な資料として伝えられているというほか、詳しい事績がわからない天皇であった。大正時代になって在位が公式に認められたが、陵墓を治定(じじょう)することができず、祖父は後半生のライフワークとして研究を続けたようだが、ついにわからなかった。(と金城の妻であった、祖母から聞いた。私の知識は自分で調べた現在の一般的な見解、祖父の論文、祖母や母から教えてもらったことが混在しているので、この記事を見ている読者は注意されたい。)

私の祖母とは2度目の結婚で、実に祖父57歳のとき大正13年に母が生まれており、それ以前のことはあまりわかっていない。昭和になってからが母のよく知る金城の姿であるが、母も亡くなり、叔父たちも当時は若く幼く、この祖父のことを知るひとは、看病をしながらよく話を聞き、母の希望で祖父の霊場を一緒にめぐったことのある私だけになってしまったようなこともある。その意味でも、ここに書いておくことにも価値があるだろう。また祖父の意思としては、昭和10年代後半、戦争がひとびとの生活に痛手を深めるなかこれらの研究誌も自分の研究も顧みられることがなくなり、ついにガリ版刷りにして、このうえは図書館に寄贈して後世に残そうとしたという話もある。

もとは江戸の尾上屋という松坂出の油商の息子であったが、本居宣長(幼名を取ると、小津富之助)の学統を引くとされている。宣長との家系・血縁関係については正確なことはわからない。金城の前の結婚のときの従姉妹に伝えられている話も私の聞いた話と違うことが含まれている。だいたいに小津商人は血縁よりも、仕事上の役割、資本関係が一族を成す原理規範になっている。たとえば宣長の家は、宣長が実子であるのに才覚のある義兄が商売を継いでいた。私が母から聞いているのは、江戸の尾上屋が跡取りがなく、宣長の血統で遠縁の家からいとこ同士を夫婦として跡を継がせたという。またこの調子であるから、養子などで遺伝子のつながりは途絶えているかもしれない。私にもわからない部分が多いので、ここでは「そうらしい」ということにしておく。
注、以下。

いくぶんか誤解を招いているようなので追記しておく。上述の「実証的」という言葉を確認されたい。一応筆者は単独で学術論文を公表できる資格を持っている。例えば古文書・古書などが歴史的事実を示唆するものがあるとしても、それを複数の資料・手紙などで確認でき、論文の査読に応えるものでなければ、私はここに断定的に書くことはできない。特に家系のことなどは私自身、かなり詳細に聞いているものの、考証の不足を感じている。2021.04.17


こういう家では娘には和歌を教えていたらしく、祖父のおばは歌人であったようである。幕末の大奥で奥女中たちに和歌を教えに行っていたと、母から聞いた。そのほか明治になってからも、まだ確認はできてもいず、よっぽど慎重に関わり方を判断する必要があるので、具体的には明確にはしないが、高級な婦人たちに和歌を教えていたようである。

今回これを書くために、戦後に多くの金城の資料・草稿・著作・手紙が失われたなか、私の手持ちの資料に目を通してみたが、十分学者として通用する水準の著作であるようだ。もっとも何にせよ90年近く古い文体とかつてそれなりの世界として存在したであろう常識、疑古文、レ点付きの漢文で書かれている分、これ自体が歴史的文書として解釈が必要であった。専門外の私の理解のレベルを若干越えたものであるのかも知れない。しかも明治・大正と諸陵寮の頭を長年務め、宮中顧問官にもなられた山口鋭之助さんも当時の宮内省の仕事の内部に立ち入った貴重な回想録を祖父の研究誌に多数回寄稿されており、その発行部数の少なさとともに、これらの論述にしても、このままにしておいて良いものかとも思われた。

母が祖父の陵墓・天皇史の理解と研究に言及するとき、この山口鋭之助氏の話は常に出てきて、親密な交際があったようである。山口氏は10歳ほど祖父よりも歳がうえであるが、本来は理学博士であって、実際諸陵頭になられたときも、当初は山稜の設備を管理するほうで大きな功績を残されている。(後年には陵墓に対する認識とご見解で著作も著されている。)幅広い知識を持ち、陵墓に詳しかった祖父とは良い組み合わせであったようである。なおこの方が宮内省に入る前は学習院の院長であり、その後任が乃木希典さんになる。

これらの研究誌の編集に当時10代の母は手伝わされ、母はこの古文や難しい文章が読めた。また小津の私教育であろうか、もちろん和歌の素養は基本知識としてもっていたが、祖父は歳を取ってから生まれた娘に特に愛情を注ぎ、源氏物語をなんとか読まそうとした。しかし母は太平記などの武士の物語を好み、特に婆娑羅大名、佐々木道誉の大ファンであった。そのほかにこの歳を取った祖父と母の関係では、例えば当時は中央から派遣された大阪府知事が主催するような宴会に祖父は名士として呼ばれたりしていたが、まだこの時代は明治以来の伝統で西洋式の男女同伴の会には母がエスコートで付いて行ったという。こんな感じで、私の母はほかの女性にはないような社交性を身につけていったようである。私も無意識のうちに女性にドアを開けてしまうし、先に行かせてしまう。

こうして私には学問・知識に対する古風で洗練された考え方、和歌に対する敬意などを母から教わったし、父からは古武士の習わしなどを教えられて私は育ったことになる。私の詩を知るひとは、こういうと頷けるものが多数あると思う。私の詩はかなり手法としては現代詩として冒険的なことをしているではあろう、しかし本質的には文化的に日本の伝統に忠実な部分もある。




2016-07-04 当サイト・ブログ。冨澤守治・パーソナル・ウェブサイト